「はてな村」が「はてな村」であるゆえん

前のエントリが沢山ブックマークされて、アクセス数がうなぎ上りに上昇しました。

そこで「リンク元」一覧を見てみると、見事にhatena.ne.jpと増田からのリンクがほとんど。ああ、はてなってはてなの中で閉じているんだなあという事を実感した一日でした。

はてなダイアリーだけはやめておいた方がいい10の理由 (2)

5つ足りてないらしいので、5つ分考えてみました。

  1. おとなり日記を見ていくうちに時間を浪費してしまい、足抜け出来なくなる。
  2. 変な星が付いていると思って色々調べていくうちにはてなスターを使い始め、足抜け出来なくなる。
  3. "1 user"という赤文字が現れたので見てみると、変なところからツッコミが入っていて、いつの間にか自分もはてなブックマークを使い始めて足抜け出来なくなる。
  4. いきなりポイントが送られてきたりして、足抜け出来なくなる。
  5. いつの間にか非モテ非コミュ、学歴論争に巻き込まれてしまい、足抜け出来なくなる。

書いてみて気づいた。はてなの機能を列挙しただけだ。

共有する楽しさ

なんか激しくdisられているけど、個人的にはこういう考え方もあるんだー、って興味深く読めた。

自分も趣味と呼べるような事は基本的に自分一人でやっている事が多いので、このエントリをdisっている人の気持ちもよく分かる。例えば、読書なんて基本的に一人で完結できてしまう物だし、美術館巡りだって同じ物を見たとしても感覚の共有って難しい。

でも、書評を載せたり感想を載せたりすることで共感してくれる人が居たら、それはそれでまた別の嬉しさがある。趣味を個人でやっている喜びとは違って、同じ物を共有しているんだという連帯感とか、そこで生じる互いの意見の交換なんてのは、自己承認をもらったようなある種の満足感を与えてくれる。

なので、趣味は一人で楽しんでもみんなで楽しんでも、それぞれにそれなりの楽しみ方があるよ。

それに、「個人で楽しむ趣味だってある」と言っている人たちこそ、実は共有することの楽しみを知っているはず。だって増田がここで「趣味は共有してなんぼ」と主張した事に対して、周りがこれだけ食いついているというのがその証拠。ここで発言している人たちは、話題を共有する事の楽しさを今感じているはず。

独身女性の性交哲学

不思議なことに(そうでも無いか)、この本は被ブックマーク数は多いにもかかわらず、言及数がとても少ないです。さすがに読んでも書けないか、あるいは手に取るだけでも抵抗があるかという事なのではないかと思いますが。

独身女性の性交哲学

独身女性の性交哲学

本書は、ソープ嬢の著者が女性のセックスに対する意識の裏側に焦点を当て、女性が男性に抱く幻想、男性が女性に抱く幻想の違いがもたらすすれ違いについて述べた一冊です。似たような境遇にあった酒井あゆみの著書とはまたちょっと雰囲気が違う感じ。

もう徹底的に、男性の幻想と女性の幻想をあぶり出していきます。「愛されること」と「お金を持つこと」を同時に望んでしまう女性に対して、男性の求める物は「セックス」と「安定」と「みえ」。互いに互いを承認し合いたいという願望は変わらないのに、世間は男性にはリードする役割を与え、女性にはエスコートされる役割を与える。などなど。

そういった幻想をあぶりだしていく合間に、「本来精神的にお互いを支えあうというのが恋愛の正しい姿ではないの?」「自分を満足させる為だけの恋愛で本当に永遠の幸せが得られると思っているの?」と、著者は常に問いかけます。この問いかけが本当に居心地悪い!

とはいえ、お互いに別の方向を向いている幻想がかみ合っている間はいいのかもしれないけど、そのバランスが崩れてしまったら、そこに愛情なんて残らないんだろうなというのは、著者に言われるまでも無く分かること。なので、余計に責められている気分になって居心地が悪くなります。これを読んでも「それでも彼から愛されたい!」と開き直る人がむしろ多いんじゃないかと。

で、散々責められた続けた挙句、最後まで読んだ感想は「むなしい」でした。ただひたすら男の幻想と女の幻想を対比させる中で、男の目線の先と女の目線の先はこれほど違う方向を向いているのかという事をこれでもかと見せつけられると、ただむなしさしか残りません。

最後に著者は「ま、別に幻想でもいーじゃん。恋愛とセックスを楽しめばさっ!」というまとめ方をするのですが、若い内からそういう割り切り方をしろというのもなかなか難しい話ではないでしょうか。「自立して自己肯定感を身に着ければ、別にそんなに悩む必要も無いよ?」とは著者の弁ですが、そういう安定した自己肯定感を身につけられるようになるのは、最低限30代くらいにならないとダメなんじゃないかなあ、と想像しています。そういう自己肯定感が身につかないからこそ、相手に愛されて従属される為の恋愛に走るわけで。

女性が女性に向けて書く本なのでよくある話ですが、全体的に女性に対して厳しめです。だからとはいえ男性に甘いというわけではなく、男性に対してはどことなく「男ってかわいそう…」という感覚がにじみ出ているような気がします。やはり「男の現実を嫌というほど知るハメになった」人は、そういう感覚を持つ物なのでしょうか。

期待する幸せ、期待する不幸せ

なにかにがっかりすることより、なんの期待もしないことの方が不幸だと思う

人によりけり、状況によりけり、かなと思う。

普段から明るく、精神的に強い人は、期待が叶う喜びを十分に受けられるだろうし、反対に期待が空回りしても別の期待に胸を幸せにできる。

逆にそうでない人にとっては、期待によって心が振り回されるだけで相当苦しい思いをするだろうから、あまり物事に期待しない方がいいだろうと思う。

普段から「期待すること」に対してどういう心構えを持っているか、というのを常に考えておくだけでもいろいろと違うのかもしれない。

自分が目立ちたければ、まず他を目立たせる。

別の日記サイトで書いてた時にそこそこ目立つ(≠有名)ようになったけど、突然そうなった時に受けるプレッシャーって、なってみて初めて分かりました。
それに比べて逆に目立つメリットって何よ?って考えてみて、メリット>デメリットとなるような目立ち方をしないとつらくなるのは必然です。

自分みたいに「他の人に自分の書いた文章を読んでほしい」って人の場合は、まず他人の日記を読む。そして読んだ日記にコメントを書く。っていうようにして、まずは自分が目立つのではなくて、目立つ日記を自分から読みに行く事を考えた方が得策なのではないかと思うのですが。自分がしたい事はまず他人にする、というのは多人数が関わることにおいて基本原則だろうと思います。

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

Dainさんの所で書評が掲載されていたので、読んでみました。

イワン・イリイチの死

死を目前にして、死と向き合う恐怖心や自分の人生観との葛藤をする男の話。

常に病から来る痛みと付き合いながらも、誰もその痛みを理解してくれるわけでもなく、ひたすら孤独に苛まれる。病に対抗しようと色々頭を悩ませてみるものの、逃れられない死から逃れようとする葛藤する。

最後には自分の人生の意味に疑問を投げかけ、歩み寄ろうにも既に引き返せない孤独に冒される。最後にそれらの業から救われる為に残された手段は…。

何とも恐ろしい小説でした。話が進むに連れて主人公の孤独感が強くなっていき、最後には誰にも理解されないどうしようもない孤独感に為す術も無く取り残される。周りの人間はそういう孤独感を理解できずにただどうしたらいいかも分からずに居るだけ。その両者の間の溝に恐ろしさを感じました。

クロイツェル・ソナタ

結婚後、妻との不仲と妻の浮気に苦しんだ挙句、妻を殺害してしまう男の話。

読み終わって一言。「気持ちは分かる。」浮気を疑う時の不安な気持ちの描写は素晴らしい。思わず「あるあるw」と思うこと多々。だけどこの男の思考パターンもねえ。独特の男性中心主義的な価値観に基づいた女の見方にはうーん…と首肯させられる。

不仲のきっかけは、婚約後に過去の女性関係を打ち明けた事だったんだろうなー。そこは嘘でもいいから良い男を演じきらないと。「この人とはダメかもしれない…」と思わせてしまったら、それを回復するのって至難の業どころでは済まない話だと思う。

訳者あとがきを読むと、トルストイの妻が、妻側の視点から見たカウンターストーリーを書いたという話が載っていたので、是非そちらも読んでみたいところです。こういうストーリーだと、妻側からもかなり言いたい事があるでしょうし、むしろそっちを読みたいです。